No.282 近代看護教育の母とナースの歴史
ナースの語源は、ラテン語にあるようです。ラテン語の「nutricia(ニュートリキア)」意味としては「授乳する人」という意味だそうです。この言葉から英語へと発展し「nurse」という単語が生まれたようです。今回はナースの歴史について解説いたします。
ナースの始まりはナイチンゲール?
ナースと言えば、直ぐに出てくる名前は、多くの人がナイチンゲールと答えるのではないでしょうか。ナイチンゲールは1820年にイタリアで誕生し、1854年頃にクリミア戦争下のイスタンブールにて、看護活動を行う看護師として従事する事になりました。
ナイチンゲールはイタリアでも裕福な家庭に生まれ、数学・哲学・心理学・経済学・歴史学などを学び、語学にも堪能でイタリア語・フランス語・ドイツ語・ラテン語などを習得していたようです。これは当時の女性では珍しく、高等教育を受けていた賜物です。
彼女が看護婦を目指す契機となったのは、1849年イギリスでの飢餓の蔓延にあったようです。その時の、貧困層の余りにも酷い暮らしぶりに心底心を痛め、ナイチンゲールは慈善奉仕活動こそが自身の天命であると確信したと言われています。
ただ、まだこの時代には、病院と言う確固たるものが少なく、医師が患者の家に赴き往診をするといった事が主流の時代でした。まだ看護師と呼ぶには余りにも専門知識の乏しい、医師の手伝いや世話をするといった者が、看護師らしき者の仕事の時代でした。
1851年家族の猛反対の中、ドイツのカイゼルスベルト学園で看護婦の勉強をスタートさせました。やがてそののち、ロンドンで医療や病院の運営などの教育にも励み、英国内での病院などの状況を視察し、専門的な教育を受けた看護婦の必要性を説き始めました。
その様な時にクリミア戦争の勃発などで、彼女は自らの意思で、戦場の野戦病院に赴き看護婦としてのキャリアをスタートさせたのです。勿論まだ看護の仕事など認知されていない時代でしたので彼女たちも、まともな看護の仕事などは与えられず。
最初は、野戦病院内での、清掃や食事の世話などに明け暮れる日々が続きましたが、戦闘の激化により傷病者の数は増加し、人手不足の現状もありナイチンゲールは、遂に看護婦として看護の仕事に就くことになったのです。
その後は野戦病院の看護婦総責任者となり、徹底した病院内の衛生管理と、傷病者の健康管理を昼夜問わず行なう事で、それまでの死者数を数十パーセント減らし最終的にはその数を2パーセントまでにする事に成功したと言われています。
ナースの歴史
上記の功績により、彼女はオスマントルコ帝国と帰国後の英国より莫大な功労金が支給されたことを機に、ナイチンゲール基金を創設し、ロンドン聖トーマス病院内に、看護婦養成学校を設立しました。
この学校は、看護知識だけではなく病院管理なども教育する、宗教にもまったく関係しない世界初となる看護学校だったと言われております。それと共に本格的なナースという職業が世間に知れ渡っていったと言っても良いのではないでしょうか。
それまで修道院のシスターや修道女たちが行なっていた、祈りを基本とした看護から、専門的な知識を持った看護婦による看護へと進化したと言えるのは、このナイチンゲールの功績が少なからず、看護と言うものの概念を変えたと言っても過言ではありません。
- ■まとめ
- ナースという職業は、その看護技術やシステムなどの向上が日々図られ進化し続けております。その時代のニーズにあった看護という学問は、昔とは違い社会的な地位も確固としたものへと変わりました。
- 今や看護専門学校から、大学の看護科まで多くのナースを育成する環境は整っており、優秀な人材が生まれています。その基礎を築いたのはやはり、ナイチンゲールだったのかも知れません。